「オスカー・ワイルド」 映画の感想と覚書

 昔のVHSビデオを整理してたら出てきた。1997年イギリス映画。ジュード・ロウが主要な役で出ているのにDVD化されていないのは同性愛を扱ってるからかな? 輸入DVDはアマゾンに売っていた。原題は「Wilde」。

 映画はなかなか美しかったけれど、これどこまで史実なんかな?というのは常に頭についてまわった。エピソードは史実通りだと思うけれど、登場人物のキャラクターが・・・。まず、オスカー・ワイルドってほんとにこんなに優柔不断で流されやすくて情けない性格だったのか? 映画の中では、口は達者で軽薄な言葉がぺらぺら出てくるけれど、基本的には真面目で実直な人間に描かれている。でも実際は耽美趣味はめちゃめちゃ強かったわけだし、破滅的な美学も持ってたはずなのに、あまりそういう風には見えない。ただ、魔性の男に出会ってしまったために身を持ち崩してしまっただけ、という風に見える。ほんとかな?

 相手役のアルフレッド・ダグラス卿も、自己中心的でわがままで男を振り回す魔性の男として描かれているけど・・・どこまで本当にこういう人だったんだろうか。ただ、わがままで男を振り回す魔性のオム・ファタル役としてはこのジュード・ロウは完璧ではある。

 しかし伝記映画って普通、本人より美化した俳優が使われないか。この映画みたいに本人よりブサめの俳優が使われるって珍しいのではないかな。写真見る限りワイルド本人はイケメンまではいかないがけっこう伊達男で、ここまでひどくはない。これではまるで、美青年に魅入られた、社会的地位はあるがしょぼいオヤジみたいだ(表情がまた、タレ目で本当にしょぼい)。正直、ベッドシーンとか、ちょい微妙。

 美青年に魅入られたオヤジ、というちょっとありがちな構図に見えるところ、もしかしたらこれは「ベニスに死す」風に作られた映画なのかもしれない。美青年と有名作家、ということでベタにそういう話になったのかな。もうちょい違うアプローチのほうが楽しかったかもしれない。

 ランボーとベルレーヌの話も、ランボーテレンス・スタンプのがあって、昔から見たかったんだけど機会がなく見ていない。「太陽と月に背いて」ではディカプリオがランボーをやっているらしく、これも悪くなさそう。

ロンドンオリンピック閉会式について

 閉会式に年寄りのロックスターがたくさん出ていたと聞いて、「オリンピック 閉会式」でぐぐってみた。そしたら「オリンピック閉会式のNHK解説に批判殺到」みたいな記事が上にだーーっといっぱい出てきた。アーティストの演奏中にアナウンサーと解説者が無駄話をしまくり、演奏が満足に聞けなかったらしい。

 アテネオリンピックの開会式の時、ビョークヨーヨー・マの演奏中にアナウンサーがいらん話をべちゃくちゃしまくり、演奏を静かに聞けなくてテレビに向かって激怒しまくったことがある。「黙れ!」と何度机を叩いて叫んだかわからない。すぐさまNHKのサイトから苦情を送った。もちろんそんな意見が受け入れられるわけもないので今回のことも起こってるわけだけど、当時は、こんなことでイラついてNHKに苦情送るのは私くらいのもんなのか、日本人は音楽聞くのを邪魔されても嫌だと思わないのかなあ…などと思ったもんだった。今回のは大御所がたくさん出ていたのでそれを目当てに見ていた人が多かったことと、何といってもTwitterの存在が大きいということだろう。

 gorin.jpで閉会式の抜粋を見ることができた。もちろん無駄話つきだけど。次々におじじ達が出てくる。ジョージ・マイケル、ペットショップボーイズ、WHO、スペシャルズ、オアシスの人(違うバンドやってる)、クイーン、キンクス…。キンクスにフーって一体どこまで古いん。マイ・ジェネレーションやってるよ…。確かに見る方も年寄りならある程度楽しめる、というか笑えるけれど、何だか変な感じ。なんちゅうかなあ…新しさがない。バカなアナウンサーが「ベテランから若い人まで」とか言っていたが、実際は年寄りがほとんど。MUSEとかFat Boy Slimでずいぶん若いほうに見えた感じ。

 その中で良かったのがアニー・レノックスだった。これだけは(笑わずに)普通に鑑賞できた。でっかい船の穂先に乗ったパフォーマンスもかっこよかった。何より、(他の人に比べて)あまり年をとっていない。美しい。ところがNHKの閉会式再放送ではアニー・レノックスの部分はカットされていたというから、いかにNHKが趣味が悪いかがよくわかる。

 というか、この閉会式(開会式も)じたいが、いまいち趣味がよくない感じがした。全体に「イギリス」のゴリ押し、それも誰もが知っているようなベタで陳腐なイギリスのアピール。勝手なイメージだけど、イギリス人ってもっとひねくれ者で一筋縄でいかない感じじゃなかったかなあ。こういうパフォーマンスって、当のイギリス人は嫌がってる人が実は多かったりして。

 ストーンズは出演を断ったらしい。えらい。と思ったが、お年寄りだし健康問題だったりして、と思うとトホホだ。Zepも断ったらしいが、こちらは前回の閉会式にロンドン代表として出ていた。マッカートニーは開会式でヘイ・ジュードの大合唱をしたらしく、輪をかけてベタ。

 ジョージ・マイケルはたしか昔ハッテン場でなんかしてたところを逮捕されたりしてなかったか。Mr.ビーンもたしかなんかなかったっけ? すっかり大丈夫なんだなあ、と妙な部分で安心したりした。どうせならボーイ・ジョージも出てきたら面白かったのに。

 アテネオリンピックの開会式・閉会式ではアテネ色もギリシャ色も強くは出していなかったように思う。出演していたアーティストも国籍はいろいろだったし、今回みたいにナツメロは演奏してなかった。おそらく最も「オリンピックはギリシャ!」とゴリ押ししてもいい立場でありながら、グローバルでアート色が強く、「これからのオリンピック」を感じさせるショーだったと記憶している(あんまりしっかり見てないので印象だけど)。今回のロンドンの見てると、何だか逆にイギリスの文化的衰退を感じる気がする。その後のギリシャの経済的衰退と比べるとましなのかもしれないけれど。

 そういや韓国もオリンピックのあと経済破綻してIMF管理に入ってた。オリンピック、経済には良くないのかも?

ピビンパの国の女性たち/伊東順子 本の感想

 2004年発行の韓国についての本。「もう日本を気にしなくなった韓国人」とあわせて読んでみた。「疑問点の多い本だ」とamazonのレビューに書かれていたけれど、確かに「えぇー?そうかなあー」と突っ込まずに1ページも読み進めることが難しい。だから読むのに妙に時間がかかった。オヤジ向けに斎藤美奈子調で書こうとしてると思うのだけど、品がなくてどうもいけない(単に下ネタが多いという話ではなく。多いけど)。

 けど、あとがきに次の文章があって、それで何となく全部許せる気がした。執筆時はイラク人質事件があったあとのよう。

<私はこんなとき、韓国の人々がとてもうらやましくなる。時代への当事者意識もさることながら、なによりも傷ついた人に優しい。弔問に訪れた制服姿の女子中学生が涙を流していたが、他人の死をちゃんと悲しめる心がここの人々にはある。
 それに比べると日本人はいつのまにかひねくれてしまい、優しさを失ったように思える。イラクでの人質家族や、拉致被害者家族会へのバッシングなどはそのいい例だ。ひょっとしたら、最近の韓国ドラマ人気も、そこに私たち日本人が失ってしまった、人間の素直さや優しさが残っているからかもしれない。>

久々のマル激

 いくつか見たい回があったので、久々にvideonews.comに入った(あまりにもM氏が嫌いなので、お金を払って見る気にはなれず普段は入っていない)。

 「噂の真相」元副編集長の川端幹人氏の回が面白かった。編集長の岡留氏とは今まで3度ほど大ゲンカしたが、「君はただのサブカル左翼だからそんなシニカルなんだ」と言われたらしい。サブカル左翼って言い方、ほんとにあるんだ。
 M氏と同じ歳の川端氏、「540度回って左翼、という風になりたいといつも思っていた。そういう意味で言うと宮台さんは僕の希望の星でもあったんですけど。でもまあ宮台さんは自分では右翼だってずっと言ってるからね」。M氏はこの場で(時勢を考えてなのか、神保さんの前だからなのかは不明)右翼とイキがっていたことを言われたくなかった様子で、いきなり左翼的教養をひけらかし出してごまかす。挙句に自分は岡留氏と同じだ、と言い出すのでびっくり。そんな安全な場所にいて。

 サヨク的文化人の土壌にどっぷりいる中で「俺は右翼だ」と気取っていた人間が、私は心底大嫌いだった。左翼の中にいて右翼を気取る卑怯さ。右翼だというなら、マル激に出るのではなく右翼チャンネルに出ればいいはず。そういう人たちはもともと風見鶏のように空気を読んで他人に媚びて生きているので、今は右翼を気取ることを手のひら返すようにやめてると思われるけれど。

 やはり嫌すぎる。ゲストは面白いことが多いんだけど。神保さんはジャーナリストとして信用してるけど、M氏と気が合うってところで最終的に信頼しかねる。

マンション自治会というもの

 マル激で神保&宮台が「マンションの自治会というものは日本人には本当に向かない」というようなことを言っていたことがある。じゃあ外国人はどうやって解決しているのか教えてほしい。

 マンションの自治会というものに、今まで2ヶ所、行ったことがある。

 1ヶ所のは、つねづね家にまわってくる自治会からの文書を見て、何かと勝手に決めてるなあ、必要のないものに独断でお金使ってるなあ、と感じていた。「安心安全のため」とかいって、耐震検査とか防犯カメラとかに数百万。私には無駄としか思えなかった。きっと自治会はひどいところに違いない。と思って会議に行ったら、何のことはなくしゃんしゃん自治会。参加者は思ったよりいたが、誰もほとんど発言せず、静かなもんだった。拍子抜けした。

 会議が終わってから管理会社の人に「自治会ってどこもこんなもんなんですか?」とそっと聞いてみた。ここの管理会社は電話した時に出る営業の人は不動産屋みたいにチャキチャキした人が多いのだが、会議に来ていた人は、温和そうな白髪まじりのおじさんだった。おじさんはこう言った。

 「いいえ、ここの自治会は、ものすごく平和です」
 「えっ、ていうことは、普通は」
 「普通は、ものすごくもめます。こんな平和なことはありません」

 ものすごく、のところに静かだか感情がこもっていて、おじさんの普段の苦労がしのばれた。

 もう1ヶ所の自治会のほうは、ふるーいところで、人数も多く、参加者はお年寄りが多かった。若い人もいたのだが、発言が多い人が70代らしき人が多いので、特にそう見えたかもしれない。

 こちらの会議はもう、どう表現していいかわからんくらい、紛糾した。からむのが大好きな人たちがいちいち細かいことにからみまくり、理屈も道理も通らず、まったく会議は進まず、何も決まらない。決まるわけがない。「バカヤロー」だの「出て行け」「黙れ」「お前こそ黙れ」といった怒号が飛び交う。そしてここが日本人らしいところなのだが、「黙れ」とか罵倒しながらも、ちょっとえへっと笑っていたりして、微妙に「ごっこ」くさいのだ。ためにする怒号。それだけに、なおさら会議は進まない(ほんとに意見が違うから紛糾してるだけなら、意見さえ合えば進むはずだもんね)。予定の時間の倍以上かかってもまだ終わらない。

 私は、前のことがあったので、なるほど普通の自治会ってこういうもんなんだな、前に管理会社のおじさんが言ってた通りだな、と感じていた。それで、帰る時に、こっちに来ていた管理会社のおじさんにも、そっと「自治会ってどこもこんなもんなんですか?」と聞いてみた。こちらも温和そうなおじさんは、きっぱり「いいえ」と答えた。

 「私は今日ヘルプで来たんですけど、びっくりしてます。普通は、もっと平和です」

 どっちが本当の姿なんや?と思った。たまたまこの2ヶ所があまりにも両極端で、この間のどこかに真実はあるということなのだろうか。

 いずれにしろ、あれは確かに日本人には難しいと思うわ。他に方法もないしああするしかないのだろうけど。友達のいるマンションでも、入ったときにはペット可だったのに、のちに自治会で禁止になった、と嘆いている人もいる。うるさい少数の人の意見が通っちゃう上に、自浄作用がないからねえ。

人間が一番えげつない

 京都に住んでいた頃、ある単発バイトをして、そこでひとりの主婦の人と一緒に仕事することになった。暇な時間に少しおしゃべりをしたのだが、その人の言ったことが深く印象に残って、ずいぶん経った今でも忘れられない。私が大阪に住んでたことがあると言うと、大阪出身のその人は、「京都はやりにくい」としみじみ言うのだ。

 「特にそんな風に思ったこともないですけど、そうですか?」
 「京都で仕事したことある?」
 「学校は行ってたけど、仕事はしたことないかな」
 「仕事したらわかるよ。ほんまにやりにくいで、京都の人は」
 「京都と大阪って近いのに、そんなに違うんですか?」
 「ぜんっぜん違う! ほんまに違うよ!」

 まあこんなやりとりをした。どういうところが?と聞いたら、言ってることをそのまま取ったらひどい目に合う、影で何を言ってるか本当にわからない、あっちとこっちで見せる顔が全然違う、みたいなことを言っていたかな。

 その時はそんなもんなんかいな、と思っていたけど、あとからいろいろ考えると、何だかいろいろ合点がいってきて、それまで京都がやりにくいとか思ったことがなかったけど(全国どこでもそんなもんと思っていた。私こそが「どこでも同じ」と思っていた)、そうだったのかなあ、と少し思うようになった。もしかして幼少時からロクなことがなかった暗い10代も、京都だったから余計に…なんて思ったりして。

 それからずっとあとのこと、京都の家の近所でいつもは通らない狭い路地に入ると、猫が2匹いた。猫を見つけるといつも声をかけるので、その時も声をかけていると、その先の、植木や花をきれいに植えてある家の玄関前に人がいた。その家の奥さんらしかった。「お宅の猫ですか?」と聞くと、その人はそれほど愛想がいい風でもなく、「餌をやってるだけ」と答えた。「かわいいですね」と言うと、その人はこう言ったのだ。

 「猫はええわ。猫はええ。人間が一番えげつない」

 独り言のようにそう言いながら、ふーっと家の中に入っていった。一瞬「へ?」と思ったけど、そのあと、近所づきあい大変なんかなあ…京都の人じゃないのかも…なんて思ったのだ。それだけ。

 それからは、胸糞悪い人間に会うと、「人間が一番えげつない」とつぶやいてみることにしている。

もう1度、日本人の好きな言葉「どこでも同じ」「みんな同じ」についてつらつらと

 日本人は自己責任論が好きと言われるが、ほんとはこっちのほうが好きなのだ。「どこでも同じ」「みんな同じ」「みんな大変なんだ、文句を言うな」。要するに、同じことを言ってるわけよね。みんな同じなのに不遇な目に合うのは自己責任、というわけだから。ヘンテコな平等思想はいわゆる島国根性のせい?かはわからないが、みんな同じ→自己責任→言いたいことを言わせない→だってみんな同じ で、ぜんぜん人を幸せにしないループ。

 昨日風呂に入りながらふと気がついたのだ。私に向かってよく「みんな同じ」という言葉が言えるよなあ、と。だって、ふと思い出してみれば、私って在日だったのだ。そりゃ今は韓流のせいで在日への差別は(驚くほど一気に)減ったかもしれんが、そもそもマイノリティの被差別者。基本的に、在日にとって日本はそれほど居心地がよくなくても不自然ではない。少なくとも同じじゃないとは思わないのか? まあそういう場合のために「誰でも大変なんだ、文句を言うな」という言葉が用意されているわけだけど。基本的に個人差を認めない思想があるわけよね。それははっきり言って、弱者の個人差を認めない、という意味だけど。

 「みんな同じ」の不幸さは、弱者同士が助け合えないところにある。そりゃ世界のことはよくは知らんが、日本ほど弱者同士が助け合わない国ってないんじゃないだろうか。どうも見てたら、みんな低いレベルで、隣の人同士で貶め合っているように見える。ちょっとでも出し抜こうとし合ってるように見える。本当は助け合って、連帯しあうべき人たちが最もギスギスして孤独でいるように見える。

 しかし考えてみたら、私のほうにも他人からつけ込まれる原因があるのだろうと風呂の中で考えた。当事者性を振り回すことがよくないことだ、と私が心のどこかで思っている、私はそういう人間じゃないと心のどこかで思っている、それが言動に現れる、こいつは主張しないのだから叩いても大丈夫だ、と思われる…。そんな経験が、今までも嫌になるくらいあった。確かに、当事者であることを主張する人はちょいしんどい、合わない、と思っていて、私はそうじゃないよ、と言いたいと無意識に思っているところがあるのだ、きっと。だけど、そういう考えは結果的に、他人に悪く利用されるだけなのだ。