人間が一番えげつない

 京都に住んでいた頃、ある単発バイトをして、そこでひとりの主婦の人と一緒に仕事することになった。暇な時間に少しおしゃべりをしたのだが、その人の言ったことが深く印象に残って、ずいぶん経った今でも忘れられない。私が大阪に住んでたことがあると言うと、大阪出身のその人は、「京都はやりにくい」としみじみ言うのだ。

 「特にそんな風に思ったこともないですけど、そうですか?」
 「京都で仕事したことある?」
 「学校は行ってたけど、仕事はしたことないかな」
 「仕事したらわかるよ。ほんまにやりにくいで、京都の人は」
 「京都と大阪って近いのに、そんなに違うんですか?」
 「ぜんっぜん違う! ほんまに違うよ!」

 まあこんなやりとりをした。どういうところが?と聞いたら、言ってることをそのまま取ったらひどい目に合う、影で何を言ってるか本当にわからない、あっちとこっちで見せる顔が全然違う、みたいなことを言っていたかな。

 その時はそんなもんなんかいな、と思っていたけど、あとからいろいろ考えると、何だかいろいろ合点がいってきて、それまで京都がやりにくいとか思ったことがなかったけど(全国どこでもそんなもんと思っていた。私こそが「どこでも同じ」と思っていた)、そうだったのかなあ、と少し思うようになった。もしかして幼少時からロクなことがなかった暗い10代も、京都だったから余計に…なんて思ったりして。

 それからずっとあとのこと、京都の家の近所でいつもは通らない狭い路地に入ると、猫が2匹いた。猫を見つけるといつも声をかけるので、その時も声をかけていると、その先の、植木や花をきれいに植えてある家の玄関前に人がいた。その家の奥さんらしかった。「お宅の猫ですか?」と聞くと、その人はそれほど愛想がいい風でもなく、「餌をやってるだけ」と答えた。「かわいいですね」と言うと、その人はこう言ったのだ。

 「猫はええわ。猫はええ。人間が一番えげつない」

 独り言のようにそう言いながら、ふーっと家の中に入っていった。一瞬「へ?」と思ったけど、そのあと、近所づきあい大変なんかなあ…京都の人じゃないのかも…なんて思ったのだ。それだけ。

 それからは、胸糞悪い人間に会うと、「人間が一番えげつない」とつぶやいてみることにしている。

もう1度、日本人の好きな言葉「どこでも同じ」「みんな同じ」についてつらつらと

 日本人は自己責任論が好きと言われるが、ほんとはこっちのほうが好きなのだ。「どこでも同じ」「みんな同じ」「みんな大変なんだ、文句を言うな」。要するに、同じことを言ってるわけよね。みんな同じなのに不遇な目に合うのは自己責任、というわけだから。ヘンテコな平等思想はいわゆる島国根性のせい?かはわからないが、みんな同じ→自己責任→言いたいことを言わせない→だってみんな同じ で、ぜんぜん人を幸せにしないループ。

 昨日風呂に入りながらふと気がついたのだ。私に向かってよく「みんな同じ」という言葉が言えるよなあ、と。だって、ふと思い出してみれば、私って在日だったのだ。そりゃ今は韓流のせいで在日への差別は(驚くほど一気に)減ったかもしれんが、そもそもマイノリティの被差別者。基本的に、在日にとって日本はそれほど居心地がよくなくても不自然ではない。少なくとも同じじゃないとは思わないのか? まあそういう場合のために「誰でも大変なんだ、文句を言うな」という言葉が用意されているわけだけど。基本的に個人差を認めない思想があるわけよね。それははっきり言って、弱者の個人差を認めない、という意味だけど。

 「みんな同じ」の不幸さは、弱者同士が助け合えないところにある。そりゃ世界のことはよくは知らんが、日本ほど弱者同士が助け合わない国ってないんじゃないだろうか。どうも見てたら、みんな低いレベルで、隣の人同士で貶め合っているように見える。ちょっとでも出し抜こうとし合ってるように見える。本当は助け合って、連帯しあうべき人たちが最もギスギスして孤独でいるように見える。

 しかし考えてみたら、私のほうにも他人からつけ込まれる原因があるのだろうと風呂の中で考えた。当事者性を振り回すことがよくないことだ、と私が心のどこかで思っている、私はそういう人間じゃないと心のどこかで思っている、それが言動に現れる、こいつは主張しないのだから叩いても大丈夫だ、と思われる…。そんな経験が、今までも嫌になるくらいあった。確かに、当事者であることを主張する人はちょいしんどい、合わない、と思っていて、私はそうじゃないよ、と言いたいと無意識に思っているところがあるのだ、きっと。だけど、そういう考えは結果的に、他人に悪く利用されるだけなのだ。

トムとジェリーは偉大だ。

 この間ある大型ショップに買い物に行ったら、キッズコーナーというんですか、親が買い物している間に子供を遊ばせておく場所があって、そこの大型テレビで「トムとジェリー」を流していた。お、トムとジェリーだ、と思ってしばらく見ていると、すっごい面白いのだ、トムとジェリー。面白くて、立ったまま2エピソードほど見てしまった。

 子供の頃はトムとジェリーってあまり好きではなかった。ワンパターンだし、猫が悪いほうだし(よく見たら実はジェリーの方がズル賢かったりするのだが)、けっこう残酷だし。でも今見ると、すごく映像がきれいで、リズム感が素晴らしく良いし、洒落ているし、そして意外なことに、結構笑える。セリフほとんどないのに、非常に良くできたスラプスティックで、とても楽しい。トムとジェリーって名作なんだなあ、と思った。

 もうひとつ面白かったのは、そこで見ている子供の反応で、全員がものも言わず、体もほとんど動かさず、魂を吸い取られたように画面に見入っているのだった。面白い場面では私は笑ってしまったりするのだが、子供は笑いもせず、ただ見入っているのだ。以前「探偵ナイトスクープ」で、幼児にタケモトピアノのCMを見せるとどんなにむずがっていた子供もぴたっと泣き止むというのがあって、実験したら実際に大騒ぎしていた数十人の子供がCMが流れてきた途端、ぴたっと静かになるという驚愕の映像だったのだが、ちょっとそれに似ていた。もしかしたら、トムとジェリーにもタケモトピアノCMと同じような効果があるのかもしれない。

 私はしばらくの間そこで見ていたので、子供は何度か入れ替わり、別の親が別の子供を連れてきたりしたが、ほぼ全員が同じような様子だった。「面白い?」と子供に何度か聞いている親がいたが、子供は返事もせずに画面を見ていた。一人だけゲーム機を取り出してやり始めた男の子がいたが、ゲーム機をいじる時間よりテレビを見ている時間のほうが長かった。

 私が見たエピソードがまたちょい感動的で、ジェリーがサーカスから逃げ出したライオンに遭遇するのだが、そのライオンは、自分はサーカスが嫌でたまらない、ジャングルに帰りたい、とジェリーに訴える(ここのみセリフあり。字幕版だったので英語で言ってた)。ジェリーとライオンは協力してトムをやっつけ、ライオンは無事アフリカ行きの船に乗り、帰っていく。ジェリーとライオンは涙を流して手を振り合う。レトロ感もたまらない。

 と思ったら動画あった!

 もうひとつのも良かったんだよね。ジェリーが「こんな田舎には飽き飽きしました。都会へ行きます」とトムに書き置きしてハリウッドに行く話。もちろん結末は、都会はひどいところでスイートホームに帰ってきたジェリーがトムにキスしておわり(こっちはすぐには動画見つからなかった)。

元締めはやはりこの国

dailymotion 2012504707 “密使”が語る原発輸出の舞台裏

 10年近く前、ある飲み会に環境問題をやっている研究者の人がいて、言ってた。日本は大量のウランをアメリカから買うことを協定で決められていて、毎年大量に買い続けている。
 その時は「売りつけられている」「押し付けられている」というイメージで理解したけど、今になって考えれば、日本側もそこから利益を得る人たちがたくさんいたんだな。

日本人は洋楽を聞かなくなった?

 ピーター・バラカンのラジオを聞いていたら、リスナーからのメールでこんなのが読まれていた。「我々が若い頃は皆洋楽を聞いたものだが、今の日本人は洋楽を聞かなくなった。今の若い者は総じて外に興味を持たなくなっているのではないか。彼らが聞いているのは日本と韓国の音楽ばかりだ」

 韓国は外じゃないのかよ!と突っ込みたくなったが、基本的にはそうだろうなと思う。実際、私も洋楽を聞かなくなったし(しかも今は韓国の音楽ばかり聞いてるし。日本の音楽は昔も今もほとんど聞かないが)。しかし「我々が若い頃は」って、相当リスナーの年齢層が高いんだろうな、この番組。今の60〜70代ぐらいの人が若い頃はジャズを聞くことがカッコいいことで、やたら昔のジャズに詳しい人がいるように、もうひと世代かふた世代下は、洋楽ロックを語るおじいさんが増えるのだろう。

 今日の放送で、この意見に対する他のリスナーからのメールが読まれていた。「日本人が洋楽を聞かなくなったという意見に同感です。特にそれを強く感じたのは、アデルがこれだけ世界中で大人気なのに、日本ではほとんど話題になっていないことです」
 これに対してバラカン氏はこう言っていた。「アデルはそれなりに悪くないが、グラミーを独占するほど、そこまでいいかな、と正直思う。今のアメリカやイギリスの、グラミーの候補になるような音楽のレベルは、もしかすると昔に比べて下がっているのかもしれない」

デモはムダ? /原発についてあれこれ

20120310 3・11から1年 ニッポン再生のキーワード(前)
20120310 3・11から1年 ニッポン再生のキーワード(後)

 イタリア人ジャーナリストのピオ・デミリア氏。「政府が嘘をつくのは、どこの国でもありうること。私がびっくりするのは、日本人には怒ってる人がほとんどいないこと。我慢強いことは、共犯関係になる。伝えるメディアがないというが、2〜3万人のデモと100万人のデモは違う。100万人ならメディアは伝える」

20120324 メルケル首相“脱原発”の裏側

 ドイツでは福島の事故のあとすぐメルケルさんが7基の原発を止めたのに、それでは不十分だとして、反原発デモに25万人が集まった。確かにケタが違う。

 河野太郎田原総一朗のラジオで「デモしても意味がない」と言っていた。デモをしても国会議員には伝わらない。官僚がブロックするし、いや世間にはこういう声もあるんですよ、と別のことを議員の耳に吹き込むから、デモをいくらしても議員には伝わらない。有効なのは、地域の国会議員の事務所に行って直接議員に伝えることだ、と言っていた。なるほど現実的な意見かもしれない。

 しかしこれだけのことがあって、それでも変わろうとしない日本という機構の磐石さはすごい。もしかして、ほとぼりさめたら元通り、だったりして?などと思う部分もあったけど、ここまでとは。少なくとも、いろいろなことが露骨にむき出しになり、日本という国が何でできているかがある程度多くの人の目にも触れるようになったとは思うけれど(それもインターネットがあったればこそ)。

 私個人で言えば、電力会社が(たぶんガス会社もだよね)あれだけうまい汁吸ってるとは知らなかった。こういうことが起こらない限り「総括原価方式」という言葉がメディアに乗ることもなかったのだろうし。

ドイツZDF フクシマのうそ /原発についてあれこれ

Part2
http://www.youtube.com/watch?v=uOgoZDDsRkc
 すごくよくまとまってて、日本の問題点がヒジョーによくわかる番組(原発問題は日本の問題が凝縮されている)。ドイツ人すげえ。アマカダ〜リ(天下り)。福島第一にいる専門家は皆相当な被曝をしており、そのうち福島第一には誰も専門家がいなくなるかもしれない、4号機がどうにかなったら周辺には誰もいることができなくなり、他のユニットも制御できなくなる、のくだりはさすがに背筋がゾッとした。

 いい人だ。東電幹部や政治家や官僚で、そして日本の大手マスコミの人で、この人のように泣ける人がどれだけいるだろう。エリート層に優しさがないということは、やはりその社会は優しさのない社会なのだ。

 昔、日本でものすごくかしこいといわれている大学の医学部の人と話す機会があった。その人はかつてある原発のそばにある病院に勤務していたことがあったそうで、そこでは原発事故が起こった場合の対応のマニュアルがあったそうだ。「まずはこういう人をどうして、こうして、とか細かく言われてたけど、そんなん、何かあったら自分が真っ先に逃げるに決まってるやん、なあ」とその人はしれっと言っていた。たぶん、そのとき口ポカンだったと思う、私。

 知り合いのひとりが原発賛成派だと人づてに聞いた。ある程度知的でリベラルな人は普通、原発には反対だろうと私は昔から思っていたので、へえー、と思い、次にその人に会ったら原発について話をしたいと思ってた。「いくら安全だといっても、事故の確率が0%というわけじゃなし、でもその万一の事故の場合の被害が計り知れなさすぎる。途方もなさすぎる。だから原発は『割に合わない』んじゃない?」と言おうと思ってた。その話をする機会がくる前に福島の事故が起こった。未だに話はしてない。何でその知り合いが原発賛成なのかと想像してみると、まあ考えはいろいろあるだろうけれども、セルフイメージが多分に関係している気がする。自分がどういう立場のどういう人間でありたいか。理知的な人間はどういう考えを持つか。

 数年前から私は「日本人は立場が全てに優先する人たちだ」と思っている(「東大話法」という本でも日本人立場主義がとなえられているらしい)。それに気づいた時は、そうかあ立場なんだー、と思って、友達とかに「日本人って立場が全てやねん! 立場が全てに優先するねん。自分の考えとか欲求より立場のほうが上で、それを無意識にやるねん!」と熱く語ったものだけど、友達からは「はぁ、それがどしたん」みたいな反応しか返ってこなかった(当然ですね)。

 ZDFの番組でも東電の体質について取材されているけれども、電力会社の内部が相当いい加減であることは、今までちょこちょこ事故がある度に表に出ていた。放射性物質をバケツで処理していたとか、棒を釜の中に落としたとか、事故をたくさん隠蔽していたとか、どういう会社やねんそれ、ということは普通にニュース見てたらわかったはずだ。それでも普通に原発を容認している人が世間には多いということが、普通に不可解だった。