ニュースの深層(上杉隆・葉千栄) メモ

葉:日本は(中国より)もっと自由に書けるんですよ。だけどいつの間にか、facebookほとんど、今日は何の料理食べたって写真になるんですよ。

上杉:日本のfacebookほどつまんないものないですね。あれはなぜですかね。twitterも言論空間として健全性がないんで。
 日本の自由っていうのは世界の自由と違って、むしろ自由じゃないことが自由だと思い込んでるふしがあるんじゃないかと思うんですけど。

葉:安定志向、横並び、と同時に、この状況を甘んじて自慢する傾向があるんです。ここ2年ほどの日本のジャーナリスト、大新聞の書いた世界経済の記事を見てもわかるように、ヨーロッパ崩壊、アメリカは大変、中国はバブル崩壊中国経済は間もなく崩壊、崩壊と10年ぐらい言って、中国人より中国の心配してる。つまり、ここはガラパゴス島なんですよ。外から来るのも恐れてる。外に行くのも恐れてる。従ってここはまだ居心地がいいと。

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 健全な言論空間
 日本人の国民性
 「世間」の中の閉じたおしゃべり
 twitter 有名人のおしゃべりと大量のヤジウマ

A3/森達也 本の感想

 人と話していて「あれ?」と思うことが増えた。友達がこっちの予想もしない反応をかえしてくる。テレビやネットを見ていてもおかしいと思うことはいっぱいあるけど、メディアはそういうもんだろうという気がある。最近の若いモンはわからん、というなら大昔からいつだってそうなのだろうけど、同年代の友達と話していても「あれ?」と思うのだ。話が通じない。どうも常識の基盤になっていることが違う気がする。昔はこうじゃなかった気がするのになあ…。

 で、最近やっと気がついた。あっそうか、世の中が変わってるんだ!と。当たり前のことなのだけど、自分のこととなると、価値観は不変かつ普遍なものだと思ってしまうんですねえ。お釈迦様だってこの世に不変のものはないと大昔におっしゃっているのだ。空気をうまく読める日本人はさっさと適応しているのに、空気読めない私は世の中の動きについていってない、ということだったのだ。と思う。世の中のほうが変わったのなら仕方がない。そういうもんだとして受け入れる、というか流すしかない、と思うようにしている。

 そういうレベルの低い話ではないが、森達也も「日本社会が変質した」という認識を持っているらしく、そしてその変質のきっかけがオウム事件にあるとしている。オウムによって危機意識を刺激された社会が、メディアの商業主義と結託して、わかりやすく単純な善悪二元論に突っ走っているのだ、と。

「もちろんすべてがオウムから始まったわけではない。村落共同体的規範が強い日本社会は、昔から集団内異物に対しては、とても非寛容な側面がある。(略)でも多くの人の危機意識を強く刺激した地下鉄サリン事件が、日本社会のこんな傾向に大きな拍車をかけたことは間違いない」

 非常に面白い本で、「A」の映画のほうが不入りだったので第3弾は仕方なく本にしたとのことだけど、これは本でしかできないでしょう。死刑囚との面会も麻原の娘との会話も、ビデオカメラでの撮影は不可能だろうし。特にエピローグでの中川智正との面会及び手紙内容、麻原の人物像など、本当に面白い。不満なところをいえば、女性信者との面会(や手紙)があればもっとよかったかな。断られたのかもしれないけど、そういう経緯もあればよかった。全共闘だって女が大きなポイントだったのだし、女問題は重要だと思うのだけど。それとやはり内容がややオウムに擁護的になっているので、気を使った書き方をしてるなとあちこちで感じられた。はっきり悪人ぽく描かれているのは既に亡くなった村井くらいで、あとはこの本を読んだらオウム信者はみんな善人に思えてくるほどだ。だけど実際は、エスカレートして悪に突っ走った幹部信者だって(きっと複数)いたはずで、そっち側も間接的であれ見えてくるようであれば、もっとフェアな感じがしたかな。

 あとは、キリストの言葉をつぶやいてみるとか…ちょっとオイ、てとこはあったかな。こういうカッコつける男のノンフィクションの型っていつからだろう。藤原新也? 沢木耕太郎? 読んだことないけど小田実じゃないよね。

 東北の震災(「東日本〜」というネーミングには疑問を感じるのであまり使いたくない)のしばらくあとに、森達也の講演会に行った。話は半分がこの本について、もう半分が震災についてだった。本についてはいいのだけど、震災についてはもう、我々は皆懺悔しなければいけない、みたいな雰囲気でまいった。東京のほうの人はよく「震災でいかに自分が変わったか」を浸りきって語るのだけど、大地震は今まで日本中であったのだし、関西には特に神戸の震災があったということを忘れてる、というか、要するに所詮一地方の小規模なものだと思っていたわけね、と思うことがよくある。森達也は貴重な人だと思うけど、すぐヒロイズムになっちゃうのがどうかなあ、と思うことはある。

 麻原の神通力らしきものについての記述もとても興味深かったのだけど、その内容が、「さっきソバ食っただろ」と言い当てただの、「まんじゅうちゃんと食えよ」とか「おや、昨日夢でお会いしましたね」とか、すごく俗っぽくて、つい笑ってしまった。

いじめ被害者サポートが必要なのでは

 引きこもりについての本を読みながらも思ったけれど、いじめを経験して大人になった人たちへのサポート機関のようなものが、日本にはあってもいいのではないかな。

 幼少期や成長期に長期に渡りいじめの被害に遭うということは、のちのちのその人の人生から永遠に尊厳を奪うことが少なくない。天真爛漫に過ごすべき子供時代に、まわりの人間が全員敵であり、全員が自分に危害を与える者であり、常に周囲の全員に警戒して過ごさなければいけないのだ。まだ子供なのに、いかに人間が恐ろしいものかを骨の髄まで感じながら毎日を過ごさなければならないのだ。それがどういう意味を持つのか、健全な人にはなかなか理解できないのではないだろうか。

 人格の可塑期にそういう環境にあると、人間必ず歪みが出る。いわゆるトラウマということなのだろうが、成長期に受けた傷は深く入り込むので、いじめ被害者は一生この傷をかかえて過ごさなければならない。本人もそれがいじめのせいとは気づかないままに、大人になっても、自己否定、人間不信、対人恐怖、社会不適応、うつやその他の病気に苦しみ続けることが多いと思われる。いじめにあったと告白すれば今度はこの社会では「いじめられたほうが悪い」と言われるのだからえげつない。それでは救いがない。

 日本はこれだけのいじめ社会なのだから、もう少しサポート体制があってもいいと思う。私自身はカウンセリングというものにあまり意味があるとは思っていないが、カウンセリングや自助グループなどへの窓口といったものだろうか(といっても日本人の特性からいって、自助グループでも特定の主張の強い人ばかりが喋り続けて、こういう場がうまくいかない可能性は高いと思うけれど…)。

参考サイト
http://www.ijime-trauma.com/

ひきこもりと家族トラウマ/服部雄一 本の感想

 先回に引用したブログの引用元の人の本(変な文章)を読んでみた。全体には「そうかなあ?」と思う部分も多かったけど、日本文化論の部分はよかったです。ただ、小谷野さんのように「どこでも同じ」とは言わなくても、まあ、ここまでアメリカ礼賛されると、アメリカにも問題はいっぱいあるだろうに、とは言いたくなりますが…。

 日本では、いじめはいじめられた方が悪いとされる、と書いてあり、いくら何でもそこまでは、と思い、ちょっとネットを見てみたら、ソッコーで「いじめられた奴が100%悪い」「いじめられた奴があとあと社会不適応になるのはもともとそういう奴がいじめられるから」などと出てきて、まあネットとはいえ、あホントだ!と思いました。傾向として日本人の精神がより荒んできている、というのはあると思う。

 ひきこもりに共通するのは、この本によると、いじめ、対人恐怖、人間不信、親との絆が切れていること、等だそうで、全く他人ごとではなく読んだ。夜回り先生を絶賛するなど、かなり引くところもあるけど、共感するところも多かったです。心理学的な本は実はあまり好きではないのだけど(だって、何だかんだ言って、どうしようもないことが多いから)。

 「日本を外から見ている日本人として感じるのは、日本人の思考パターンの奇妙な癖です。何か問題が起きると「誰かが悪い」という発想で議論するために、いつも犯人探しが始まります。ひきこもり問題でも「甘える本人が悪い」「甘やかす親が悪い」という議論をして、結局スケープゴートを探しています。(略)
 もう一つ奇妙な思考の癖があります。多くの人は気づいていませんが、日本人は当たり障りのないテーマを議論して、本質的な話題を避ける癖があります。見ていると、議論する本人は全く気づいていないようです」

 なるほどなるほど。

 ずっと前、A.A.という人の本の書評を書いて、アンケートの取り方のここがちょっと、みたいなことを書いたら、それから本人から小学生の嫌がらせみたいなメールが次々に来るようになって閉口したことがあった。メールのやり取りでらちがあかないので、「サイト上にメール公開してもいいですか?」とメールを返すと「あなたは著作権という法律も知らないバカらしい。どうしようもないですね。私はあなたを完膚なきまでに叩きのめします云々」みたいな返事が返ってきた。は?著作権?アナタのメールに著作権?大作家じゃあるまいし。嫌なら嫌だと普通に言えばいいのに、著作権など出してきて相手を罵倒しなければならないところにやや病理的なものを感じつつ、まあ嫌なら仕方ないと本人の意思を尊重してメール公開は控えた。その代わりに書評を載せた誌面に両者の意見を載せる形をとったのだった。

 その表面的な部分だけを見ていた(これまた)小谷野さんが、いきなり「あなたが悪い」というメールを私に出してこられたのだった。非常に困惑した。この人はなぜ詳細も知らないのに、どちらかが悪い、と言い切れるのだろう?と不思議だった。詳細がわかっていたとしても(いないとしても)、「いい」「悪い」と判断するようなものではないはずだ。なんでいきなり「あなたが悪い」なのか? その思考方法が理解不能だった。

 今回、それがわかったので何だかすっきりした。「どこでも同じ」といい、これは日本人の思考パターンの癖なのだ。この本によると。

 ところで、A.A.さんとのその後について。それからもこちらを罵倒するばかりの嫌がらせメールがやまないので、それならばということで、直接会って意見交換することを提案することにした。あなたを完膚なきまでに叩きのめします、と何度も言っているのだからちょうどいいだろうと思ったのだ。ネチネチと変なメールを送りつけてくるより、面と向かってはっきり言えばいい。場所も彼が来やすいようにと、彼の日本での在学校内で設定しますと伝えた。ところが返事は、「私は外国在住だ。私と話し合いたいと言うからには、日本までの旅費を出すのだな」というものだった。非常に偉そうだった。

 しかし私は、事前に版元の社長と話をしていて、彼がひと月ほど先に帰国予定なのを知っていたので直接話し合うことを持ちかけたのだった。喜んで話し合いに応じると思っていたのに、違った。嘘をついてまで(厳密には嘘はついていないが、帰国することを隠した)逃げを打つほど、彼は直接顔を合わせるのは嫌だったのだ。メールではあれほど攻撃的だったのに。完膚なきまでに叩きのめす、というのは、メールによる嫌がらせによって、という意味だったのだろうか。

 その後もメールの嫌がらせは止まず、結局は版元社長に頼んで止めるように言ってもらって、やっと止んだ。しかし!!!あとから東京で社長に会った際に聞いたことには、社長は「たまちゃんがまいってるから、やめてあげなよ〜、って言ったんだ」とのことで、もう私は怒り心頭であった。そもそも私のほうが社長から「Aくんをそっとしておいてあげてよ」と頼まれたのだ。それなら電話番号聞いて直接「やめんかい!」と言ったほうが百倍ましだった。

 話がそれちゃった。

マイノリティにしか見えない社会の真実がある

 正月のNHK第2ラジオ「カルチャーラジオ」再放送 野村進のインタビュー。在日韓国人、在外日本人などへの取材を通して。「マイノリティにしか見えない社会の真実がある。自国人よりよく見えるところがある」
 私は長い間、知的な人なら「話せばわかる」と当たり前に考えてきた。最近になって、話してもわからないのだと考えるようになった。馬鹿なのでごく最近気がついたのだ。上から下はわからない。わからなくて当たり前なのだという視点があればいいのだが、日本人は「みんな同じ」という常識を持っているので厄介なところがある。だから簡単に自己責任論に結びつきやすい。日本人はますます自縄自縛になっていくのでしょう。

Sinead O'Connor - Damn Your Eyes

 数百枚あるCDも整理にかかっている。昔買ったシネイド・オコナーの3曲入りCDの中にこの曲があって、気に入ってよく聞いていた。ジャズっぽいし、誰かのカバーだとは思っていたが、どういう曲なのかぜんぜん知らなかった。youtubeで探したら、もとはエタ・ジェームスの曲で多くの人がカバーしている曲だと一発でわかった。昔は音楽に詳しい人も周りにいなかったし、調べようもなかったのだなあ。今はネットに単語入れれば一発。けっこうこういう細かいことで、ネットがすごく世界を変えているなと思う。

Love Sculpture - Sabre Dance

 箱に入れて保管していたカセットテープを去年処分した。中にラジオから録音したものがあり、この曲が入っていた。面白いので時々聞いて笑っていた記憶がある。原曲は音楽の時間に聞かされたハチャトゥリアンの剣の舞。検索したらデイヴ・エドモンズが60年代にやっていたバンドだとわかった。youtube見たら何と映像が。「チャチャチャチャチャチャチャ…」のところは全部ダウンピッキングでめちゃ忙しそうで、やっぱり笑える。これは速弾きといっていいでしょう。