自分に害を与えるものと縁を切ることも大事

 韓国語の勉強を始めた理由のひとつは、家族のうち1人くらいは韓国語ができる人がいたら何かの役に立つんじゃないか、と思ったからだった。母親がいなくなったら喋れる人は誰もいなくなるし、そうなれば韓国にいる親戚とも関係が途切れるだろう。少しでも言葉のできる人が1人でもいれば、細々とでも縁が切れなくてすむ。親戚にとっても、ここに連絡を取ればこちらの家族に繋がるという連絡先がひとつあれば助かるだろう。少なくとも、母親に何かあった時には、その妹であるイモには連絡してあげることができるし、向こうが先に何かあった場合にも、私に知らせてもらえば母に伝えることができる。不足ながらも、自分ができる限りの連絡係になれれば、と思ってのことだった。我ながら(無駄に)殊勝な考えだったと思う。

 母の認知症もだいぶ進んだ頃、父方のいとこ(といっても22歳も年上。私は親が40代の時の子供なので、韓国でも日本でも、親戚の中で私だけが世代が違う)と少し長く話す機会があった。韓国で私が今までやり取りがあったのは、全て母方の親戚で、父方の親戚とは会ったことも、話に聞いたことさえない。母が16歳まで韓国にいたのに対し、父は生まれてすぐ日本に来ているので、付き合いがあまりなかったようだ。父方の親戚がどんな人たちか気になっていたし、できるなら自分が親戚との連絡係になれればと思っていたので、その父方のいとこに、そちらの親戚とやり取りはあるのかどうか聞いてみた。すると、昔、韓国から日本に旅行に来たことがあるという。しかし詳しく聞いてみると、あまりよい思い出はなさそうなのだった。

 「あの人らが来た時、うちの家族は一生懸命もてなしてあげた。教会の人のお世話もあって(こっちも熱心なクリスチャン家庭)、あちこち案内もしたし食事代も全部出してあげて、つきっきりで世話した。でも、その後うちの家族が韓国に行ったら、ほったらかしどころか、せまい部屋で何人も詰め込まれて寝て、どこか連れて行ってくれることもないし、みんな無愛想で感じ悪くて、ひどい扱いを受けた。私ら言葉もわからんし、どうしていいかわからんかった。こう言ったら何やけど、うちはむこうが来た時にはお金もたくさん使ったのに、むこうは一銭も使いたくなさそうやった」

 みたいなことを苦々しく話すのだった。そのいとこはきょうだいも含め、うちと同じく韓国語は全くできないので、私は少し韓国語も勉強したし、よかったら連絡してみてもいいよ、と言ってみたのだが、「いやいやいや」と即座に否定。もう嫌だ、あの人達とはもう関わりたくないし会う気もない、と言うのだった。

 せっかくの親戚なのに、自分たちのルーツになる場所なのに、繋がりが切れてしまうなんてもったいない、と思った。その時は。

 大邱での最後の一泊は、イモの家に泊まるのだとMさんに言われた。今思えば私はもともとこのとても高圧的なイモがあまり好きではなかった(向こうも私をあまりお気に召していないようだし、要領よく媚びへつらいが上手な糞姉の方をたいそうお気に召しているあたりも、自分とは異質なものを感じていたと思う)。だから、最初に言ってくれてれば他に宿を取ったのに、と思ったがもう仕方ない。一泊の我慢だ。そう思ったけれど、結局この一泊が最悪の一泊となり、私は理不尽さと怒りとやり切れなさで一晩中涙が止まらず、一睡もできずに夜を明かした。今までの人生、徹夜したとしても1~2時間くらいは眠ったものだけれど、完全に一睡もできなかったのは初めてだった。旅行で気が張り、慣れない親戚たちとの付き合い(しかもオール韓国語。それも強烈な大邱方言)で気が張り、緊張続きだったせいもあると思う。

 あまりに腹が立って、夜のうちに勝手に出ていこうかと何度も考えて、荷物をまとめたり着替えたり寝具を畳んだりしたが、結局あとの面倒くささを考えると、何とかやり過ごしたほうがましだと思いとどまり、じっと朝を待った。

 しかし翌朝、すぐに帰れるなんてことはなく、たまたま日曜だったものだから教会に連れて行かれ、ミサ参加。涙目のまま我慢。ついでに宗教にもこの際心底ウンザリ。ここに限らず、今まで会った「信仰している人たち」が皆皆、悪すぎる。

 その日のミサでは「堅信」という行事が行われており、子供たちが白いドレスみたいな衣装を着て前に勢揃い。Mさんの妹が「見て見て、可愛い!ね、可愛いね!可愛いね!」と私に可愛さを押し付ける。私は子供が嫌いなので(子供時代のいじめの後遺症ではないかと思っている。子供の悪魔性が嫌)、適当に相槌。

 ミサが終わって帰宅したら、これからご飯をつくって食べて、それから飛行場に送ると言う。ええ~やっと帰れると思ったのに。私はここで限界をきたし、すいませんもう帰ります。ひとりで帰ります、では!と言ったが、当然一人では帰してくれず(向こうは「情」と言い張るが、田舎ならではの過干渉と思う)、Mさんが車で送ってくれることになった。それももう負担で仕方なかった。

 荷物を玄関に持ってきて帰る用意をしていると、Mさんの妹が「TAMA~、オンマに挨拶しなさい!」と呼ぶ。嫌で嫌で仕方なかったが、無視するわけにもいかず、ここをやり過ごすための最後の我慢と思い、仕方なくでーんと座っている女帝イモのところに。

 「元気でいてください。母にもしっかり伝えます。写真も見せますね」と言うと、もう今思い出しても不愉快だが、「お母さん大切にしなさい」、仕方なく「はいはい」、「お姉さんと仲良くしなさい」、前夜に家族不和の話をしていた(聞かれて仕方なく答えただけ。今でも嘘を言えばよかったと思っている)のでわざとこういうことを言ってくるのだが、ぐっとこらえて、とにかくただ早くここを出たくて、ニコニコして「はいはい」(今でもこれははいはい言わなきゃよかったと思っている)。

 ここでMさんの妹がとどめのひと言。「スキンシ~ップ!オンマはスキンシップが好きなの」

 私が険悪な気持ちでいるのを知っていてこういうことを強いてくるとは、さすがは超通俗のMさん妹。私は頭の中が爆発しそうになった。何がスキンシップだ!偽善の塊!偽善の館。自分の性格が憎い。何とかここをやり過ごして、穏便にすまそう。穏便に、穏便に、と考えてしまう。自分を抑えて、我慢して、ここをやり過ごして、といつも反射的に考えてしまう。とりあえず早くここから出たい!としか思えなかった。

 飛行場に送ってもらう車の中で怒りでまた泣いた。怒っている時に泣くのは怒りが正当に表現できてないからだとごく最近気づいた。私は小さい子供の時から、怒る代わりに泣いてきた。怒ることを封じられた環境に育ったせいか、怒ることができなくなっていたと思う。怒りを感じた時に「怒っても仕方ない」と反射的に考えてしまう不自然な癖がついていた。そして自分を抑えて相手を優先してしまう。怒りの表現方法を学べないまま今に至っていると、本当にごく最近気がついた。

 車の中でMさんには「気分が悪い。イモはひどいと思う」と正直に言った。Mさんに気を使わせるのにも疲れた。どうせこの人も宗教の人。理解あるような顔を一時はするが、翌日には「TAMAは神を信じるべきなのにしないからああなんだ」と思うのだろう。思考停止の幸せよ。

 あの晩のやり取りは思い出したくもない。韓国は行き過ぎた儒教社会で年寄りへ意見することは決して許されず、私はとにかく、我慢、我慢、我慢だった。もともと気が強い方ではなく繊細な方だ(糞姉は上には媚びへつらうが、キツイ性格で高圧的。わけのわからん隔世遺伝かなんかで、イモと同じ性質を受け継いでいるのかもしれない。お幸せなこった)。しかも不器用で要領よく立ち回れない。

 関係ないが韓国人が年寄りを大切にするというのは大嘘で、大切にされるのは「金のある」年寄りだけ。貧乏な年寄りは子供たちに見捨てられている。だから高齢者の貧困率は世界最悪の50%。年寄りを大切にどころか、若くないと大切にされない社会。若さ(と美しさ)が何より大切。だからみんな整形をする。

 私は、何とか切れかけの繋がりを細々とでも繋げようと思って、慣れない場所に一人でやってきた。その気持ちは全く大事にはされなかったと思っている。理解もしてないんじゃないかな。

 今思うことは、私に必要だったのは、縁を繋ぐことではなく、縁を切ることだったんだろうな、ということ。自分に害を与えるものは拒絶しなければいけない。AC的な人や子供の頃に長期のいじめにあった人は、これがなかなかできない。自分に害を与える環境に慣れすぎていて、それが当たり前だから、ただ我慢をしてしまう。またそういう環境しか馴染みがないから、そういう状況を引き寄せてしまうというのもある。

 ただそう考えることができたのも、実際に行って来て、嫌な経験をしたからこそ。もし実際に行っていなかったら、やらなければいけないことをやっていないという罪悪感のようなものを、ずっと持ち続けることになっていたと思う。

 日本にいる家族も、私にとっては毒多き家族だった。きょうだいは全員年が離れていて縁が薄いけれど、きょうだいたちにとってもそうだったらしく、そのうち一人は「縁を切る」と言って遠くに行った。どこかは知らない。生きてるのか死んでるのかも知らない。父親の葬式にも来ていない。その他のきょうだいも糞姉以外は今も母親に会いには全く来ない。糞姉は性質が母親やイモと似ていて自己中心的なので、一人だけお幸せそうだ。典型的な自己愛性人格障害の異常性格だけれども、本人には都合がよい。味方も多い(取り巻きの弟の嫁、子供、夫もキツイ女が好きなんだろうから味方でしょ知らんけど)。昔から美人と言われ続け天より高いプライド。お金への恐ろしく強烈な執着で実際にそこそこの金持ちと結婚して自尊心は満たされているし、子供にも恵まれ、話すことは全て自慢とマウンティング。この違和感はどうだろう。

 日本でも韓国でも、自分とはとことん合わない環境に生まれてきてしまったんだなと思う。そこに意味を見出してきた時もあったけれども、私がすべきだったことは、縁を繋ぐことではなく、縁を切ることだったんだろうと思う。この年にして知る(遅すぎ)。でも知らないままよりはよかった。