もう1度、日本人の好きな言葉「どこでも同じ」「みんな同じ」についてつらつらと

 日本人は自己責任論が好きと言われるが、ほんとはこっちのほうが好きなのだ。「どこでも同じ」「みんな同じ」「みんな大変なんだ、文句を言うな」。要するに、同じことを言ってるわけよね。みんな同じなのに不遇な目に合うのは自己責任、というわけだから。ヘンテコな平等思想はいわゆる島国根性のせい?かはわからないが、みんな同じ→自己責任→言いたいことを言わせない→だってみんな同じ で、ぜんぜん人を幸せにしないループ。

 昨日風呂に入りながらふと気がついたのだ。私に向かってよく「みんな同じ」という言葉が言えるよなあ、と。だって、ふと思い出してみれば、私って在日だったのだ。そりゃ今は韓流のせいで在日への差別は(驚くほど一気に)減ったかもしれんが、そもそもマイノリティの被差別者。基本的に、在日にとって日本はそれほど居心地がよくなくても不自然ではない。少なくとも同じじゃないとは思わないのか? まあそういう場合のために「誰でも大変なんだ、文句を言うな」という言葉が用意されているわけだけど。基本的に個人差を認めない思想があるわけよね。それははっきり言って、弱者の個人差を認めない、という意味だけど。

 「みんな同じ」の不幸さは、弱者同士が助け合えないところにある。そりゃ世界のことはよくは知らんが、日本ほど弱者同士が助け合わない国ってないんじゃないだろうか。どうも見てたら、みんな低いレベルで、隣の人同士で貶め合っているように見える。ちょっとでも出し抜こうとし合ってるように見える。本当は助け合って、連帯しあうべき人たちが最もギスギスして孤独でいるように見える。

 しかし考えてみたら、私のほうにも他人からつけ込まれる原因があるのだろうと風呂の中で考えた。当事者性を振り回すことがよくないことだ、と私が心のどこかで思っている、私はそういう人間じゃないと心のどこかで思っている、それが言動に現れる、こいつは主張しないのだから叩いても大丈夫だ、と思われる…。そんな経験が、今までも嫌になるくらいあった。確かに、当事者であることを主張する人はちょいしんどい、合わない、と思っていて、私はそうじゃないよ、と言いたいと無意識に思っているところがあるのだ、きっと。だけど、そういう考えは結果的に、他人に悪く利用されるだけなのだ。