ピビンパの国の女性たち/伊東順子 本の感想

 2004年発行の韓国についての本。「もう日本を気にしなくなった韓国人」とあわせて読んでみた。「疑問点の多い本だ」とamazonのレビューに書かれていたけれど、確かに「えぇー?そうかなあー」と突っ込まずに1ページも読み進めることが難しい。だから読むのに妙に時間がかかった。オヤジ向けに斎藤美奈子調で書こうとしてると思うのだけど、品がなくてどうもいけない(単に下ネタが多いという話ではなく。多いけど)。

 けど、あとがきに次の文章があって、それで何となく全部許せる気がした。執筆時はイラク人質事件があったあとのよう。

<私はこんなとき、韓国の人々がとてもうらやましくなる。時代への当事者意識もさることながら、なによりも傷ついた人に優しい。弔問に訪れた制服姿の女子中学生が涙を流していたが、他人の死をちゃんと悲しめる心がここの人々にはある。
 それに比べると日本人はいつのまにかひねくれてしまい、優しさを失ったように思える。イラクでの人質家族や、拉致被害者家族会へのバッシングなどはそのいい例だ。ひょっとしたら、最近の韓国ドラマ人気も、そこに私たち日本人が失ってしまった、人間の素直さや優しさが残っているからかもしれない。>

久々のマル激

 いくつか見たい回があったので、久々にvideonews.comに入った(あまりにもM氏が嫌いなので、お金を払って見る気にはなれず普段は入っていない)。

 「噂の真相」元副編集長の川端幹人氏の回が面白かった。編集長の岡留氏とは今まで3度ほど大ゲンカしたが、「君はただのサブカル左翼だからそんなシニカルなんだ」と言われたらしい。サブカル左翼って言い方、ほんとにあるんだ。
 M氏と同じ歳の川端氏、「540度回って左翼、という風になりたいといつも思っていた。そういう意味で言うと宮台さんは僕の希望の星でもあったんですけど。でもまあ宮台さんは自分では右翼だってずっと言ってるからね」。M氏はこの場で(時勢を考えてなのか、神保さんの前だからなのかは不明)右翼とイキがっていたことを言われたくなかった様子で、いきなり左翼的教養をひけらかし出してごまかす。挙句に自分は岡留氏と同じだ、と言い出すのでびっくり。そんな安全な場所にいて。

 サヨク的文化人の土壌にどっぷりいる中で「俺は右翼だ」と気取っていた人間が、私は心底大嫌いだった。左翼の中にいて右翼を気取る卑怯さ。右翼だというなら、マル激に出るのではなく右翼チャンネルに出ればいいはず。そういう人たちはもともと風見鶏のように空気を読んで他人に媚びて生きているので、今は右翼を気取ることを手のひら返すようにやめてると思われるけれど。

 やはり嫌すぎる。ゲストは面白いことが多いんだけど。神保さんはジャーナリストとして信用してるけど、M氏と気が合うってところで最終的に信頼しかねる。

マンション自治会というもの

 マル激で神保&宮台が「マンションの自治会というものは日本人には本当に向かない」というようなことを言っていたことがある。じゃあ外国人はどうやって解決しているのか教えてほしい。

 マンションの自治会というものに、今まで2ヶ所、行ったことがある。

 1ヶ所のは、つねづね家にまわってくる自治会からの文書を見て、何かと勝手に決めてるなあ、必要のないものに独断でお金使ってるなあ、と感じていた。「安心安全のため」とかいって、耐震検査とか防犯カメラとかに数百万。私には無駄としか思えなかった。きっと自治会はひどいところに違いない。と思って会議に行ったら、何のことはなくしゃんしゃん自治会。参加者は思ったよりいたが、誰もほとんど発言せず、静かなもんだった。拍子抜けした。

 会議が終わってから管理会社の人に「自治会ってどこもこんなもんなんですか?」とそっと聞いてみた。ここの管理会社は電話した時に出る営業の人は不動産屋みたいにチャキチャキした人が多いのだが、会議に来ていた人は、温和そうな白髪まじりのおじさんだった。おじさんはこう言った。

 「いいえ、ここの自治会は、ものすごく平和です」
 「えっ、ていうことは、普通は」
 「普通は、ものすごくもめます。こんな平和なことはありません」

 ものすごく、のところに静かだか感情がこもっていて、おじさんの普段の苦労がしのばれた。

 もう1ヶ所の自治会のほうは、ふるーいところで、人数も多く、参加者はお年寄りが多かった。若い人もいたのだが、発言が多い人が70代らしき人が多いので、特にそう見えたかもしれない。

 こちらの会議はもう、どう表現していいかわからんくらい、紛糾した。からむのが大好きな人たちがいちいち細かいことにからみまくり、理屈も道理も通らず、まったく会議は進まず、何も決まらない。決まるわけがない。「バカヤロー」だの「出て行け」「黙れ」「お前こそ黙れ」といった怒号が飛び交う。そしてここが日本人らしいところなのだが、「黙れ」とか罵倒しながらも、ちょっとえへっと笑っていたりして、微妙に「ごっこ」くさいのだ。ためにする怒号。それだけに、なおさら会議は進まない(ほんとに意見が違うから紛糾してるだけなら、意見さえ合えば進むはずだもんね)。予定の時間の倍以上かかってもまだ終わらない。

 私は、前のことがあったので、なるほど普通の自治会ってこういうもんなんだな、前に管理会社のおじさんが言ってた通りだな、と感じていた。それで、帰る時に、こっちに来ていた管理会社のおじさんにも、そっと「自治会ってどこもこんなもんなんですか?」と聞いてみた。こちらも温和そうなおじさんは、きっぱり「いいえ」と答えた。

 「私は今日ヘルプで来たんですけど、びっくりしてます。普通は、もっと平和です」

 どっちが本当の姿なんや?と思った。たまたまこの2ヶ所があまりにも両極端で、この間のどこかに真実はあるということなのだろうか。

 いずれにしろ、あれは確かに日本人には難しいと思うわ。他に方法もないしああするしかないのだろうけど。友達のいるマンションでも、入ったときにはペット可だったのに、のちに自治会で禁止になった、と嘆いている人もいる。うるさい少数の人の意見が通っちゃう上に、自浄作用がないからねえ。

人間が一番えげつない

 京都に住んでいた頃、ある単発バイトをして、そこでひとりの主婦の人と一緒に仕事することになった。暇な時間に少しおしゃべりをしたのだが、その人の言ったことが深く印象に残って、ずいぶん経った今でも忘れられない。私が大阪に住んでたことがあると言うと、大阪出身のその人は、「京都はやりにくい」としみじみ言うのだ。

 「特にそんな風に思ったこともないですけど、そうですか?」
 「京都で仕事したことある?」
 「学校は行ってたけど、仕事はしたことないかな」
 「仕事したらわかるよ。ほんまにやりにくいで、京都の人は」
 「京都と大阪って近いのに、そんなに違うんですか?」
 「ぜんっぜん違う! ほんまに違うよ!」

 まあこんなやりとりをした。どういうところが?と聞いたら、言ってることをそのまま取ったらひどい目に合う、影で何を言ってるか本当にわからない、あっちとこっちで見せる顔が全然違う、みたいなことを言っていたかな。

 その時はそんなもんなんかいな、と思っていたけど、あとからいろいろ考えると、何だかいろいろ合点がいってきて、それまで京都がやりにくいとか思ったことがなかったけど(全国どこでもそんなもんと思っていた。私こそが「どこでも同じ」と思っていた)、そうだったのかなあ、と少し思うようになった。もしかして幼少時からロクなことがなかった暗い10代も、京都だったから余計に…なんて思ったりして。

 それからずっとあとのこと、京都の家の近所でいつもは通らない狭い路地に入ると、猫が2匹いた。猫を見つけるといつも声をかけるので、その時も声をかけていると、その先の、植木や花をきれいに植えてある家の玄関前に人がいた。その家の奥さんらしかった。「お宅の猫ですか?」と聞くと、その人はそれほど愛想がいい風でもなく、「餌をやってるだけ」と答えた。「かわいいですね」と言うと、その人はこう言ったのだ。

 「猫はええわ。猫はええ。人間が一番えげつない」

 独り言のようにそう言いながら、ふーっと家の中に入っていった。一瞬「へ?」と思ったけど、そのあと、近所づきあい大変なんかなあ…京都の人じゃないのかも…なんて思ったのだ。それだけ。

 それからは、胸糞悪い人間に会うと、「人間が一番えげつない」とつぶやいてみることにしている。

もう1度、日本人の好きな言葉「どこでも同じ」「みんな同じ」についてつらつらと

 日本人は自己責任論が好きと言われるが、ほんとはこっちのほうが好きなのだ。「どこでも同じ」「みんな同じ」「みんな大変なんだ、文句を言うな」。要するに、同じことを言ってるわけよね。みんな同じなのに不遇な目に合うのは自己責任、というわけだから。ヘンテコな平等思想はいわゆる島国根性のせい?かはわからないが、みんな同じ→自己責任→言いたいことを言わせない→だってみんな同じ で、ぜんぜん人を幸せにしないループ。

 昨日風呂に入りながらふと気がついたのだ。私に向かってよく「みんな同じ」という言葉が言えるよなあ、と。だって、ふと思い出してみれば、私って在日だったのだ。そりゃ今は韓流のせいで在日への差別は(驚くほど一気に)減ったかもしれんが、そもそもマイノリティの被差別者。基本的に、在日にとって日本はそれほど居心地がよくなくても不自然ではない。少なくとも同じじゃないとは思わないのか? まあそういう場合のために「誰でも大変なんだ、文句を言うな」という言葉が用意されているわけだけど。基本的に個人差を認めない思想があるわけよね。それははっきり言って、弱者の個人差を認めない、という意味だけど。

 「みんな同じ」の不幸さは、弱者同士が助け合えないところにある。そりゃ世界のことはよくは知らんが、日本ほど弱者同士が助け合わない国ってないんじゃないだろうか。どうも見てたら、みんな低いレベルで、隣の人同士で貶め合っているように見える。ちょっとでも出し抜こうとし合ってるように見える。本当は助け合って、連帯しあうべき人たちが最もギスギスして孤独でいるように見える。

 しかし考えてみたら、私のほうにも他人からつけ込まれる原因があるのだろうと風呂の中で考えた。当事者性を振り回すことがよくないことだ、と私が心のどこかで思っている、私はそういう人間じゃないと心のどこかで思っている、それが言動に現れる、こいつは主張しないのだから叩いても大丈夫だ、と思われる…。そんな経験が、今までも嫌になるくらいあった。確かに、当事者であることを主張する人はちょいしんどい、合わない、と思っていて、私はそうじゃないよ、と言いたいと無意識に思っているところがあるのだ、きっと。だけど、そういう考えは結果的に、他人に悪く利用されるだけなのだ。

トムとジェリーは偉大だ。

 この間ある大型ショップに買い物に行ったら、キッズコーナーというんですか、親が買い物している間に子供を遊ばせておく場所があって、そこの大型テレビで「トムとジェリー」を流していた。お、トムとジェリーだ、と思ってしばらく見ていると、すっごい面白いのだ、トムとジェリー。面白くて、立ったまま2エピソードほど見てしまった。

 子供の頃はトムとジェリーってあまり好きではなかった。ワンパターンだし、猫が悪いほうだし(よく見たら実はジェリーの方がズル賢かったりするのだが)、けっこう残酷だし。でも今見ると、すごく映像がきれいで、リズム感が素晴らしく良いし、洒落ているし、そして意外なことに、結構笑える。セリフほとんどないのに、非常に良くできたスラプスティックで、とても楽しい。トムとジェリーって名作なんだなあ、と思った。

 もうひとつ面白かったのは、そこで見ている子供の反応で、全員がものも言わず、体もほとんど動かさず、魂を吸い取られたように画面に見入っているのだった。面白い場面では私は笑ってしまったりするのだが、子供は笑いもせず、ただ見入っているのだ。以前「探偵ナイトスクープ」で、幼児にタケモトピアノのCMを見せるとどんなにむずがっていた子供もぴたっと泣き止むというのがあって、実験したら実際に大騒ぎしていた数十人の子供がCMが流れてきた途端、ぴたっと静かになるという驚愕の映像だったのだが、ちょっとそれに似ていた。もしかしたら、トムとジェリーにもタケモトピアノCMと同じような効果があるのかもしれない。

 私はしばらくの間そこで見ていたので、子供は何度か入れ替わり、別の親が別の子供を連れてきたりしたが、ほぼ全員が同じような様子だった。「面白い?」と子供に何度か聞いている親がいたが、子供は返事もせずに画面を見ていた。一人だけゲーム機を取り出してやり始めた男の子がいたが、ゲーム機をいじる時間よりテレビを見ている時間のほうが長かった。

 私が見たエピソードがまたちょい感動的で、ジェリーがサーカスから逃げ出したライオンに遭遇するのだが、そのライオンは、自分はサーカスが嫌でたまらない、ジャングルに帰りたい、とジェリーに訴える(ここのみセリフあり。字幕版だったので英語で言ってた)。ジェリーとライオンは協力してトムをやっつけ、ライオンは無事アフリカ行きの船に乗り、帰っていく。ジェリーとライオンは涙を流して手を振り合う。レトロ感もたまらない。

 と思ったら動画あった!

 もうひとつのも良かったんだよね。ジェリーが「こんな田舎には飽き飽きしました。都会へ行きます」とトムに書き置きしてハリウッドに行く話。もちろん結末は、都会はひどいところでスイートホームに帰ってきたジェリーがトムにキスしておわり(こっちはすぐには動画見つからなかった)。

元締めはやはりこの国

dailymotion 2012504707 “密使”が語る原発輸出の舞台裏

 10年近く前、ある飲み会に環境問題をやっている研究者の人がいて、言ってた。日本は大量のウランをアメリカから買うことを協定で決められていて、毎年大量に買い続けている。
 その時は「売りつけられている」「押し付けられている」というイメージで理解したけど、今になって考えれば、日本側もそこから利益を得る人たちがたくさんいたんだな。